「自己憐憫」というツマラナイけど甘美な世界。

メンタル

自己憐憫っていう世界は、堅牢なお城に見える。そこにいる限り、傷つくことはない。

けれどその場所は、暗く、じめじめしていて、太陽の光は届かないし、人の声も届かない。それでもその世界の居心地はよい。

メンタルが正常に働いているときは、脳内アラームが働いている。例えば、昼逃げで精神がカサカサしていても、脳内で誰かがささやく。

自己憐憫の世界に浸ってはいけないよ。浸りすぎると、一番欲しくない未来がやってくるからね。ちゃんとお外にでて、太陽を浴びるんだよ」

でも脳内アラームが消えているとき、残念ながら人は気づかない。イライラとかモヤモヤとか。いろんな感情に支配されていて、そんなときは脳内アラームが他の音にかき消されてしまう。

脳内アラームって言っているけれど、脳内アラームと自己嫌悪はこれまた違う。脳内アラームはアラームといえど、優しく鳴り響く。小鳥の鳴き声のスムーズみたい。

自己嫌悪はぐわんぐわん脳内をけたたましく、非常にうるさい。

個人の感想だけど、わたしのなかで2つはそんなイメージ。

自己憐憫の世界に浸っているとき

自己憐憫の世界に浸っているとき、わたしはいつも被害者の立場でいる。

わかってもらえなかった自分の心の痛みみたいなものが尊大にうずいて、相手が悪いって大合唱している。

逆にいえば、自己憐憫の世界に浸れるときっていうのは、相手が「ごめんね」みたいな立場をみせてくれるとき。もしくは自分が相手はきっと罪悪感をもっているだろうなと想像しているとき。

これらが全くないと、自己憐憫というより「みじめ」な気持ちのほうがずっと強い。

思考は現実化する

わたしはその本を読んだことがないけれど、思考は現実化するっていうのは真実に思える。

だからこそ、自己憐憫の世界に浸るとそれらが現実のものになってしまう。

本当は、ただもっと自分を大切にしてもらいたかっただけなのに。拗ねるって感情で、文字通りこじらせてしまう。

欲しい未来はもっと別にあるし、それはハッキリしているのに、拗ねたせいですべてが泡となって消えてしまうのだ。

素直なことは尊い

素直な人って存在する。思っていることが駄々洩れの人。残念ながら、わたしは悪い意味でそうだ。本当に残念。笑

素直な人は魅力的。だってどうしたらよいのか見ててわかるし、言ってくれるから。

相手の望みを叶えたら、大喜びしてくれるから。

でも、拗ねられてしまうと、やってる本人はそれでも良いかもしれないけど、されてるほうは困るんだよ。だってどうしたらいいのか、何をしたらよいのか、全然わからないのだから。

愛されていることを忘れるとロクなことがない

個人的な感想にすぎませんが、「自分がちゃんと愛されてる」ってことを忘れるとロクなことがない

そんな状態のときのわたしは、卑屈でいじわるでイライラしてて、拗ね子になっているせいで、余計に誰かからの愛情を失ったりします。

メンタルが病むと、たぶんだれでも拗ね子になる。別居や離婚を考えるとき、心が穏やかでいられる人なんて、そうはいないはず。笑

そんなときにどうか拗ね子を発揮して、自己憐憫の世界に浸らないように。

もしも拗ね子になって欲しくない未来を引き寄せる理由が、モラ夫のせいならこんなにくだらないことないもの。

って自分に対して思ってる。

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